Brionglóid
海賊と偽りの姫
人魚 号
12
三人がいったん部屋を出てロヘルを待っていると、彼は一人の男を連れて戻ってきた。
「彼は水夫長のウーゴです。航海長が不在の間は彼が責任者です」
ロヘルが言うのと同時に、連れてこられた男がずいと前に出た。
『こんな時間にこんな臭ぇ場所の掃除なんて、馬鹿な事言い出したのはあんたか?』
頬骨のあたりと鼻の頭を潮焼けで赤くした口ひげの濃い中年の男は、ジェイクを睨み上げた。
その男は中肉中背で、ジェイクの方が頭一つ分背が高い。なので彼は自然、ウーゴを見下ろす形になる。
「夜に大掃除というのは非常識じゃないか、と申しております」
ロヘルがウーゴという男の後ろから補足する。
実際はジェイクはエスプランドル語を理解できるのだが、ここに来てからも公用語しか使っていなかった。
今もまた、わざわざロヘルに向かって口を開く。
「だったらせめて別室を用意してくれ。ここから患者を移す」
ロヘルがそれを伝えると、ウーゴは更に文句を続けた。
『空いてる部屋なんざどこもこんな感じだが、それで良いのかね。大体、こいつらはこんな状態で助かるのかよ? そこまで手間かけてやって、すぐ死んじまうんじゃ意味ねえしよ』
ロヘルが一瞬訳すのを躊躇って、ライラ達の様子を伺った。それからしどろもどろに言った。
「部屋は、あるようです……。ただ、この状態で助かるのか、と」
「助かる助からないの話じゃなく、患者のために最善を尽くすのが医者の仕事でね」
淡々と、だがきっぱりとジェイクは言った。するとウーゴは少しの間何か考え、先程とは違ったやや冷めた口調で答えた。
『面倒見るったってな、それが出来るのも航海中だけだろ。これで何とか死なずに済んだとして、次の港でこいつらは着の身着のまま放り出される。まともに動かなくなった手足で何ができる? 結局お先は真っ暗よ。道端でくたばって豚の餌になるくらいだったら、船で死んで仲間に弔ってもらった方がまだいい』
ロヘルは訳さず、沈痛な面持ちで黙ってしまった。
いくら同じ船で苦楽を共にした仲間とはいえ、働けなくなった者は船を降りねばならない。
私掠制度が始まったばかりの、獲物が豊富だった時代なら年金も出たのかもしれないが、今はそんな余裕がある船は少なかった。船乗り達はいつか働けなくなる日を見越して、日々の賃金を自分達で貯める他ない。その賃金とて、今となってはそれほど高給でもなくなってきていた。船乗りが誰でも簡単に稼げたのは昔の話だ。
まだ五体満足で船を降りた者はいいが、そうでない者や病気を抱えた者などは、なんとか郷里の家族を頼るとか道端で物乞いでもしないことには生きていけなかった。
エステーベ教会も貧民を対象に配給などはしているが、元々清貧を旨としているのもあって無い袖を振るわけにも行かず、出来ることは限られている。聖職者のロヘルとしてはつらいところだろう。
気まずい沈黙を破ったのは、誰かが階段を降りてくる音だった。
一人ではない。五名の男──しかしそのどれもが片手を三角巾で吊っていたり、頭部を包帯で覆っていたりした。
『水夫長。さっきの、医者の先生の手伝いが必要だって話だが……』
先頭に立った男がのっそりと前に出てきて、ぶっきらぼうに声をかけてきた。
『俺達でやれないかって話が出たんだ。みんなにも迷惑かけてるしな』
『マルセロ』
水夫長のウーゴにマルセロと呼ばれたその男は、陰影ですっきり通って高さのある鼻筋や薄い唇までは見て取れるものの、細かい顔立ちまでは暗い船倉でははっきりわからない。髪も、黒なのか焦げ茶なのか。低い声を聞いた限りではそれほど若いわけではなさそうだった。
彼の左足には包帯が巻かれ、ここに現れてからも少し引きずっていた。そこだけ異様に太く見えるのは、固定棒を一緒に包帯で巻きつけているからだろう。
『おそらく俺たちも次の所で降りることになる。最後のご奉公ってやつだよ。一応仲間だしな』
マルセロの右隣に立っていた、右手を負傷しているらしき隙っ歯の男が冗談めかしたような軽い口調で付け足す。
ロヘルは感激した様子で『素晴らしい決断です、皆さん!』と興奮気味に言った。
『ああ、なんということでしょう……。ご自身も怪我を負っているというのに、それでもなお弱き仲間に対する慈悲の心をも忘れないとは。神もきっと、この美しい行いに喜んでおられることでしょう』
話の内容がわからないライラは、急に雰囲気が変わったことに戸惑ってバートレットと顔を見合わせた。
多分彼らが手伝いを申し出てくれたのだろうとは思ったが、ロヘルの喜びようまでは理解しきれなかった。
するとやはり、ロヘルはライラ達に視線を戻して熱っぽくまくし立てた。
「彼らは感染症ではない、骨折などの怪我人です。彼らが手を貸してくれるそうです」
「わかった。掃除は遠慮しろってことなら、取り急ぎどこか他の場所に患者を移したい。できれば階段のないところがいい。さっき言った、藁や海水の準備も頼む」
ジェイクの言葉をロヘルが訳すと、マルセロは黙って頷く。ウーゴは物好きだと言わんばかりの目を彼らに向け、言った。
『じゃあ向こうの資材置場の隅を使いな。樽は手の空いてる奴らに運ばせる。あいつらもそのくらいはやるだろう』
そうして彼らは、哀れな患者達を徐々に新しい場所に移していった。
あまりに汚れの酷い衣服は脱がせ、帆布で包んで担ぐかおぶって運び出した。六名いた患者のうち、二名はすでに息がなかったのでそのまま水葬にすることになった。
運び込まれた患者達は新しい敷藁を引いた簡易的な寝台に寝かせられ、ライラ達は手分けして彼らの身体を濡らした布で拭いた。桶の水はすぐに真っ黒になり、持ってきてもらった樽の海水があっという間になくなっていく。
今ここにいるのはライラ達三人と、患者とマルセロ、隙っ歯のディエゴだ。ロヘルと他の三人は亡くなった者達を弔うためにこの場を離れている。
ウーゴは言うだけ言ってさっさと立ち去ってしまったし、乗組員達も樽を運んだり患者を担ぐ手伝いまではやってくれたものの、あとは逃げるように甲板へ戻ってしまった。
人が減って、今は波が船腹を叩く音だけが響いている。
患者の身体をライラが丹念に拭いていた時、朦朧としていたはずのその男がゆっくりと目を開けた。
『ここは……あんたは、誰、だ……?』
言葉の分からないライラが手を止めて黙っていると、横からマルセロが口を挟んできた。
「ここはどこで、あんたは誰だと聞いてる」
ライラが振り向くと、マルセロはまたぶっきらぼうに言った。
「公用語は日常会話程度なら話せる。あとカディム語を少し」
「……移民なのか?」
「ガキの頃に奴隷商人にさらわれたんだ」
内容の割にさらりとした告白だったのは、それが大して珍しくない出来事であることを指していた。
ライラは再び濡れた布で患者の腕を拭き始めた。
「……。ここは人魚号の中で、私は医者の手伝いで来た者だ、と伝えてくれるか?」
マルセロがすぐさまエスプランドル語で話しかけると、横たわった男は再び目を閉じて深く息を吐いた。
『船の中ってことは、俺はまだ、くたばっちゃいねえってことか……』
『船長と航海長が、他の船からいい医者を連れてきてくれたんだ』
マルセロの言葉に、男は僅かに自嘲するような笑みを浮かべた。
『そうか……。見捨てられたわけじゃ、なかったんだな……』
すると男はそのまま意識を失った。一瞬、こと切れてしまったのかとライラは焦ったが、微かに息をしているのを確認して安堵の溜め息をついた。
「安心して気が抜けたんだろう」
そう言ったのは別の患者を診ていたはずのジェイクだった。
「そいつは赤痢患者だったな。水分が全然足りてないし、体力を随分消耗してる。今後も気をつけて見て置く必要がある」
「配給分じゃ足りないってことか?」
ライラが訊くと、医者は難しい顔つきで頷く。
「倍でも少ないくらいさ。それも、藻が浮きだしてるようなのは駄目だ。他の奴にも言えることだが、とっとと陸にあげて療養させたほうがいい。いくら薬を飲ませても体力がないんじゃ効き目も落ちる」
「なるほど……」
世話を放棄されたつけがここに来て出ていた。規定量の水と堅パンだけを与えられていた病人達は、すっかり体力が落ちきっていたのだ。既に治療どうこうの話ではなくなっていた。
「なあ、先生」
突如、マルセロが二人の会話に入ってきた。
ジェイクとライラが目を向けると、マルセロは辺りをさっと見回した上で、やや小声で言った。
「俺をそっちの船で雇っちゃくれないか?」